嵐のグループキャリアは21年。メンバー5人のなかで、二宮和也が追随を許さない経験がある。坊主になった回数だ。10代と20代で計3回、頭を丸めている。と言っても何か問題を起こしたわけではなく、俳優としての話。最もよく知られているのは、クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」(06年)。ジャニーズタレント初のハリウッド進出で、国内外から高い評価を得た。
二宮を俳優の道に導いたのは、ジャニーズ事務所創業者のジャニー喜多川氏。同氏は97年、ミュージカル「STAND BY ME」に出演した二宮、松本潤、相葉雅紀、生田斗真の中から1人を抜てきして、ドラマに出演させようとした。条件はただ1つ。丸坊主にすること。
「ジャニーさんはニノを呼び、『(ほかの)3人が坊主にしたくないって言ってるから、おまえ、してくんない?』と、実にストレートにお願いしました。でも、二宮はまだ14歳。断ったんです。ところがミュージカルの千秋楽後の9月、『COUNT DOWN TV』(TBS系)のリハーサルだと聞かされて、赤坂のTBSに呼び出されました。『二宮和也 断髪式会場』という紙が貼られた会議室に案内されると、椅子に座らされ、有無を言わさず坊主にされたのです」(芸能ライター)
事前に集められていた大勢のマスコミの前で、二宮はおよそ30分かけて15cmほど髪をバッサリ切られた。事務所社長から仕掛けられた、人生初の壮大なドッキリ。それは翌98年元日、松本清張・原作のドラマ「天城越え」となって実を結んだ。
このおよそ8年後、「硫黄島からの手紙」が公開。同年、今度は二宮本人が世間を欺くかたちで、スキンヘッドを披露している。
「『少しは、恩返しができたかな』(TBS系)というスペシャルドラマで、ガンと闘う高校生を演じました。この撮影期間中に、レギュラー番組『Gの嵐!』(日本テレビ系)に出演。VTRの前半では黒い短髪に白いタオルを巻いていたのですが、後半になると、おもむろにカツラごと取って見せ、ツルンとなった頭を見せたのです。あれには驚かされました」(前出・芸能ライター)
本作のなかで、二宮が丸坊主になるシーンがある。自毛を切り落とした、本番一発勝負の渾身シーンだった。この撮影後、「硫黄島からの手紙」で再び頭を丸めた。
名優・二宮和也を誕生させたのはジャニー喜多川氏のちょっとしたいたずらだった。このことをニノは感謝しているに違いない。
(北村ともこ)