男性アイドルグループの歴史を変えたのは、ジャニーズ事務所(現STARTO ENTERTAINMENT)所属で「3年B組金八先生」(TBS系)発のたのきんトリオ(田原俊彦、野村義男、近藤真彦)だろう。その流れを継承したのが、少年隊、光GENJI、SMAPだ。
ジャニーズ史上最大のヒットメーカーといわれた光GENJIは、「光」の内海光司と大沢樹生、「GENJI」の諸星和己と佐藤寛之と山本淳一と赤坂晃と佐藤敦啓(現・アツヒロ)が合体して誕生。1987年にシングルレコード「STAR LIGHT」でデビューすると、翌88年の「オリコン年間シングルチャート」でシングル「パラダイス銀河」と「ガラスの十代」と「Diamondハリケーン」が上位3位を独占する社会現象に。音楽界で最高の権威だった「日本レコード大賞」も受賞した。
デビュー時、赤坂は14歳で敦啓は13歳。労働基準法により20時から朝5時まで芸能活動ができなかった。そのため、歌番組では2人が事前収録、スタジオで5人が歌唱し、その映像を交互で流すなどで対応された。ところが88年、労働省の労働基準監督署が光GENJIは「表現者」であるため、労働基準法を適用しないと通達。のちに「光GENJI通達」と命名され、アイドルが国を動かした。
その年にリリースされたのが、年間売り上げ3位となった「Diamondハリケーン」。長寿音楽番組の「ミュージックステーション」(テレビ朝日系)で初披露した時、赤坂と敦啓は欠席。代替でジャニーズJr.内のユニットだったSMAPの中居正広と木村拓哉に白羽の矢が立った。古参のアイドル雑誌編集者が振り返る。
「司会のタモリさんからちゃんと、『SMAPの木村くん、中居くんでーす』と紹介されています。まだ16歳の2人は、細いボディ。上半身は着衣なし、短パンで歌って踊り、先輩5人についていこうと必死。実に初々しく、1日限りの光GENJIを乗り切りました」
中居と敦啓は同じ神奈川県藤沢市出身で、旧知の仲。敦啓は中居の1年後輩だ。レッスン場から一緒に帰ったこともあるほど、仲が良かった。中居は故・ジャニー喜多川社長から「YOU、ローラースケートできる?」と聞かれたが、興味を示さなかった。その数カ月後、光GENJIがローラーを履いている映像をテレビで観た。その中に敦啓がいて、複雑な気持ちになったという。
「かく言うSMAPもデビュー前には、TOKIOの国分太一さんと元V6の坂本昌行さんが“加入”しています。結成当時はみんなが未成年だったので、サポートメンバーが5人もいたのです。あるアイドル雑誌の撮影では森且行さん、稲垣吾郎さん、草彅剛さんが欠席。それにともない、国分さんと坂本さん、デビュー前に退所した岩佐克次さんがSMAPとして写っています」(前出・雑誌編集者)
光GENJIとSMAP。もう2度と見られないシンクロが、昭和に実現していたのだ。
(北村ともこ)