光GENJIのバックダンサーとして、あまたのジャニーズJr.から選抜、87年に結成されたのが「スケートボーイズ」だ。SMAPの前身グループである。メンバーは常に流動的で、ピーク時は20人に達し、TOKIO・国分太一、V6・坂本昌行のほか、かつてJr.だった俳優の反町隆史も在籍していた。
そこから、森且行を含めた6人がSMAPになり、91年9月、「CANT’STOP!!-LOVING-」で歌手デビュー。東京・西武園で開催されたデビューイベントには、台風15号が接近するなか、1万5000人が集結している。
ちなみに、ジャニーズ事務所の入所がいちばん早かったのが中居正広、次が草なぎ剛だ。ほかのメンバーは2人が光GENJIの2ndシングル「ガラスの十代」(87年発売)のダンスレッスンをしていた頃、オーディションを受けに来ている。
この頃、光GENJIの候補メンバーが数名挙げられており、中居もそのなかに入っていた。ところが、毎週土曜日に義務づけられていたローラースケート教室をサボっていたため、真面目に通い続けていた佐藤敦啓(現:アツヒロ)が、結果的にメンバーになった。中居と佐藤は同じ地元で、同じ学校の先輩と後輩という間柄。後輩に先を越された中居の悔しさは、計り知れなかったに違いない。しかし、そこから10年も経たないうちに、SMAPはモンスターアイドルに成長。もし、中居が光GENJI入りしていたら、はたしてSMAPはこれほどまでに国民的スターとなっていただろうか。
SMAPは、実にメンバーのバランスが取れていた。器械体操経験者の草なぎはアクロバットが得意。稲垣吾郎には中性的な美しさがあった。最年少で11歳だった香取慎吾は元気ハツラツ。大の野球好きで最年長の中居は、抜群の統率力でリーダーになった。中居と同級生の木村拓哉は、弟の付き添いでオーディションに来た稲垣の姉が一目惚れしたほどの美男子。その木村とのちに“SMAPの2トップ”と呼ばれる森は、長い手足、マッチ棒が乗るほど長いまつ毛、高いダンススキルと歌唱力で、入所直後から抜群のアイドル性を発揮させていた。
メンバーについて中居は、「俺と木村はSMAPで一番年上で引っ張っていかなきゃいけない立場だったので、近すぎず遠すぎず、対極の存在でそれぞれの立場から見て行こうと昔、話しあったんです」と、雑誌のインタビューで語っている。
そのため、年下の森が昭和を代表する学園ドラマ「3年B組金八先生」(TBS系/88年)にまっ先に抜擢されても、寛大な心で受け止めた。中居自身が若干16歳で、バラエティ界で生きていこうと腹を括ったことも大きかった。