TOKIOが東京五輪の聖火リレーランナーを辞退した。福島県の南相馬市を走る予定だった。これまで、グループでレギュラーを務めるバラエティ番組「ザ!鉄腕!DASH!!」(日本テレビ系)の人気企画「DASH村」で長年にわたって福島に通い、東日本大震災後による原発事故で風評被害をこうむった県産品のプロモーションに取り組んできたが、スケジュールの都合で不可能となった。
3月でメインボーカルの長瀬智也が辞め、残る城島茂、国分太一、松岡昌宏で設立したジャニーズ事務所の傘下会社「株式会社TOKIO」を本格的にスタート。誕生からおよそ32年にわたるTOKIOの灯は、この先も消さないことを宣言している。
そもそもTOKIOの源流は、89年に城島と山口達也がバンドを結成し、ジャニー喜多川氏が「TOKIO BAND」と命名したことがきっかけ。CDデビューにこぎ着けたのはその5年後とあって、苦労は多い。金銭的ピンチに何度も陥ったため、どんな仕事もした。そんななか、いまだに解せない仕事がある。場所は、東京屈指の夜遊びタウンである六本木だ。
「当時、六本木交差点付近にマクドナルドがありました。その外苑東通り沿いの入口付近で、交通安全のビラを持って、インターナショナルスクールの生徒と『交通安全お願いします』と呼びかける仕事をしたことがあるんです。冬の寒空。メディア関係者がいなかったので、どこにも報じられず、2時間ほど働いたそうです」(スポーツ紙記者)
召集されたのは城島と国分、山口の3人。ドッキリ企画と疑ったが、何も起こらず「ありがとうございました」と解散した。デビュー前。ジャニーズタレントなら一度はこなす仕事だと、無理やり自分を納得させた。
TOKIOの受難は、デビュー後も続いた。
「城島はお金がなくて栄養失調になってガリガリに。日銭を稼ごうと、パチンコ店に入り浸っていたそうです。そんなある日、デビュー曲の『LOVE YOU ONLY』がうるさい店内で流れた。ようやく目が覚めて、パチンコ三昧から足を洗ったそうです」(前出・スポーツ紙記者)
5人だったTOKIOが4人になり、3人になって再スタート。過去の苦境をどう生かすかは、城島、国分、松岡次第だ。
(北村ともこ)