かつては“Jリーグ史上最高の天才(ジーニアス)”と謳われたサッカー元日本代表の柿谷曜一朗氏が、スペインの名門レアル・マドリードとサインする寸前だったことを明かし、最終的にそのチャンスを“拒絶”した経緯を語っている。
柿谷氏といえば、足元の技術を駆使した変幻自在のドリブルやパスで観衆を魅了したファンタジスタで、クラブ史上最年少の16歳でセレッソ大阪のトップチームとプロ契約を締結。24歳の2014年まで所属し、130試合37ゴールという戦績を残したセレッソのレジェンド的存在である。
その後はスイスのFCバーゼルへ移籍し、世界に渡ったが、思うような活躍を披露することはできず、わずか2シーズンで古巣のセレッソに復帰。誰もが夢見るヨーロッパ挑戦は失敗に終わったものの、“天才”ともてはやされた16歳の頃には、メガクラブとして知られる名門でトレーニングに参加したこともあった。
4月29日までに配信された読売新聞ポッドキャスト「ピッチサイド 日本サッカーここだけの話」の中で、柿谷氏はイングランドのアーセナルやイタリアのインテルで練習に帯同した際の印象として、「通用したと思ったし、入団の話もあったと思うけど、ホームシックみたいな感じになって。セレッソの居心地が良いっていうのがあったと思うんです。そこで『海外が怖い』ってイメージがついちゃったんですよ」と説明した。
さらに世界最高のクラブとも称されるスペインのレアル・マドリードでのエピソードも回想。「19歳でレアルのBチームの練習に参加して。そこが1番手応えがあった。契約の話になったんですけど、最後はやっぱり『怖い』ってなった」といい、「甘えだと思います。自分を厳しい環境に置きたくないっていうメンタルの弱さがもろに出た瞬間」と語る。
これに番組MCの同元代表・槙野智章氏が「自分で叩き割ってやろうって感じにはなれなかったんだ?」と尋ねると、柿谷氏は「全くなれなかったです」とし、「1週間、レアルに行って、早く帰りたくて仕方なかったです。根本的に貪欲さみたいなのが僕にはなかったんだと思うんです」と説明。ただ、そんな自分に少しの後悔があるのか、未来のスター候補たちへの助言として「もしボクと同じ境遇の子がおるんやったら、100%やるべき。周りも契約書を書かせて、無理にでも放り込んだほうがいい」と、多少強引にでも海外でプレーするチャンスは見逃してはいけないと述べていた。
「若くからサッカーの才能にあふれ、10代にして存在感が抜きん出ていた柿谷氏ですが、サポーターの間でも、メンタル面の問題は根強く指摘されてきた経緯があり、スター扱いされていたセレッソからも、常習的な遅刻癖で放出されるに至ったと告白しています。当時は『正直な話、遅刻したことを悪いと思ってなかった』と打ち明け、ある日のクラブハウスで、監督に『もう出てってくれ』と告げられたようです。そうした私生活での甘えがなければ、アーセナルやインテル、そして、超名門のレアル・マドリードで活躍していた可能性もあったと考えると、かなり惜しいキャリアだったといえますね。ネットでも、そんな柿谷氏のエピソードに対し『上手いだけでは海外では活躍できないんだと実感する』『冷静な自己分析ですね』『天才ではあってもメンタルが欠けているから伸びなかったんだろうね…』などの反応が上がっていました」(スポーツライター)
世界で成功を収めるには、サッカー以前にヒトとしての成熟も強く求められるということだろう。
(木村慎吾)