今や6000人もの芸人を抱え、教育事業や国際連合による“SDGs”計画のPRにもひと役かっている吉本興業だが、このお笑いという分野にとどまらない手広い商売を仕掛けた張本人こそが、会長の座に就く大崎洋氏だとされている。
反社会的勢力への闇営業騒動や、それに伴う所属芸人に対する岡本昭彦社長のパワハラ発言など、現在多くの難題を抱えている吉本。極楽とんぼの加藤浩次や友近を含む、一部の所属タレントはトップである大崎会長と岡本社長の退任を強く望んでいるとされるものの、2011年に同事務所を退所し、芸能界を引退した元芸人の島田紳助氏は今回の騒動を発端とした吉本の改革案について、「大崎クビにしたら会社潰れんで。ほんまに」と断言。圧巻の話術と巧みな商才をも兼ね備えた島田氏にそう言わしめるほどの“大崎洋”とは一体どんな人物なのか。
「1978年に吉本興業へ入社した大崎氏はその直後に勃興した空前の漫才ブームを目の当たりにしたものの、同時に、わずか数年足らずでその盛り上がりが冷めてしまう厳しい現実も肌で経験しました。当時の漫才ブームが現在のお笑い人気に比べて長続きしなかった理由のひとつとしては、単純に才能に満ちた芸人の弾数が不足していたという面もあるでしょう。島田紳助氏をはじめ、ビートたけし、横山やすしなどが繰り出した“超高速のしゃべくり”漫談を体現できるタレントはごく一握りであり、その芸当を継承できる人間はほぼ皆無といえる状況でした」(テレビ誌ライター)
そこで、芸人の画一的な教育指導が今後のお笑い界を支えるだろうと踏んだのが、大崎洋氏である。彼は1982年に吉本によって設立された吉本総合芸能学院(NSC)の初代責任者としての立場を任され、それと並行しながら、“無名の新人2人組”に大きな可能性を見出していた。
「大崎氏がNSCの担当者となり、真っ先に目を付けたのが1期生として入学していたダウンタウンの松本人志と浜田雅功です。2人は出で立ちもチンピラさながらで、トークスタイルは道端で世間話をするようなスローテンポかつ極めてラフなもの。しかし、発言の一つ一つには独特の切り口とセンスが散りばめられており、高速のしゃべくり漫談が流行していた時代にあって、大崎氏は無名のダウンタウンが披露した新たなスタイルに心底魅了されていたんです。後に、島田紳助氏は新たな潮流を作りはじめていたダウンタウンの漫才を見て、“俺らの時代は終わる”と痛感し、紳助・竜介の解散を決断したとも語っています。つまり、大崎氏は誰よりも早く10年後、20年後のお笑い界を背負って立つダイヤの原石を発掘したと言えますね」(前出・テレビ誌ライター)
さらに、大崎氏も設立に関わったとされるNSCもまた吉本興業にとっては大きなビジネスの転機をもたらした。
「設立当初はそれほどの大金を月謝として受け取っていたわけではありませんが、現在は一律で1人につき40万円の入学金が必要になります。逆に言えば、40万円を支払い、1年間吉本のNSCに在籍していれば、誰でも晴れて“吉本興業所属芸人”となることができますが、入学時に1000人居たはずのスクール生は1年後にはおよそ10分の1ほどに減少するとされています。これは過酷な競争などが理由ですが、吉本側は入学時に40万円の先払いとローンを組ませる事前決済のシステムを取っている為、極端な話、何人飛ぼうが金銭的なダメージはありません。また、今や大阪と東京だけでなく、名古屋や広島、沖縄、仙台などにも養成所を開校しており、このNSC案件だけでも相当な収入を得ていることになります」(前出・テレビ誌ライター)
かつては、師匠が物理的に抱えられる人数のみを弟子に迎え入れる養成システムが主流だったが、一度に大量のスクール生を集められるNSCの登場により、よもやのビッグビジネスとなっただけでなく、1980年代の短すぎた漫才ブームの元凶でもある“芸人の弾数不足”にも対応できる環境が出来上がったといえる。そして、その記念すべき1期生にはダウンタウンがいたのだ。
吉本興業としての社会的立場を上昇気流に乗せ、2人のヒーローを生み出し、そして、今やどの芸能プロダクションも採用する学校制度を普及させる。これらの功績を成し遂げた“大崎洋”という男は吉本にとっては欠かせない人材ということだろう。
「大崎さんが辞めるなら、俺も辞める」。そんな発言で多くの芸人をザワつかせた松本人志だが、そのコメントの裏には大きな恩義の他にも、圧倒的な経営手腕に対する畏怖の念も含まれていたのかもしれない。
(木村慎吾)