いよいよヒロインのアキ(能年玲奈)が上京し、母親の春子(小泉今日子/有村架純)がアイドルを目指していた当時の様子も明らかになってきた「あまちゃん」。
春子の過去が明かされるにつれ、昭和59~60年(1984年~1985年)当時の東京がどんな様子だったのかも描かれるようになった。本放送の2013年時点ですでに30年近くも前の話であり、令和5年の現在からみればほぼ40年前という大昔だ。
その40年弱で東京はどのように変わったのだろうか。春子と同じ昭和41年(1966年)生まれのライターが、当時を振り返ってみた。
1)東北新幹線は大宮止まりだった
これは「あまちゃん」の本編でも紹介されていたが、昭和57年(1982年)に開業した東北新幹線は昭和59年当時、埼玉県の大宮駅に発着していた。春子は上野まで各駅停車(京浜東北線)で移動していたのである。
なお当時は新幹線の切符を持つ人だけが利用できる「新幹線リレー号」という電車が大宮と上野をノンストップで結んでいたが、なぜ春子がそれに乗らなかったのかは不明だ。
2)埼京線は存在していなかった
驚くなかれ、昭和59年の東京には埼京線がなかったのである。同線が開業したのは昭和60年9月のことで、しかも当初は池袋止まりだった。その後は新宿、恵比寿と延伸し、現在のように新木場まで開通したのは2002年(平成14年)である。
ついでに言うと、地下鉄の大江戸線や副都心線、南北線は着工すらされておらず、ほとんどの都民はまだ路線計画すら知らなかった時代だった。
3)原宿・竹下通りにはコンビニがなかった
いまではコンビニや100円ショップもある竹下通りだが、昭和の時代にコンビニは1軒もなかったのである。SoLaD竹下通りや原宿アルタといった商業ビルもなく、竹下通りには小規模なショップが連なっていた。
4)大人数グループアイドルは存在していなかった
作中でもその活躍ぶりが紹介されていた「おニャン子クラブ」だが、結成は昭和60年(1985年)4月であり、春子の上京当時にはまだ存在していなかった。そのおニャン子クラブは大人数グループとして、初めてメジャー級で活躍したグループだったのである。
現在でこそ当たり前のように存在するグループアイドルだが、おニャン子クラブ以前はせいぜい4人まで。そもそも昭和の技術では同時に使用できるマイクの本数にも限界があり、大人数グループがステージで歌唱するのも難しかったものだ。
5)民放テレビ局はすべて旧社屋だった
春子がオーディション番組「君でもスターだよ!」を受けに行ったテレビ局は、旧TBSのイメージだと思われる。昭和59年当時、TBSの高いビルはまだなく、現在では赤坂Bizタワーがそびえ立っているところに「TBS会館」があり、その奥に「TBS本館」が建っていた。
日本テレビは当時、現在は同局の番町スタジオが建っている麹町に本社があった。そのためJR市ヶ谷駅と有楽町線・麹町駅を結ぶ通りは現在でも「日本テレビ通り」と呼ばれている。
フジテレビは現在でこそお台場の代名詞的存在だが、当時は都営新宿線・曙橋駅の近くにあり、その地名から「河田町」と呼ばれていた。同局あての郵便物で宛先が「東京都新宿区牛込局区内フジテレビ」と案内されていたのを覚えている人も多いはず。当時は港区以外に本社があった唯一の民放キー局でもあった。
テレビ朝日は所在地こそ変わっていないものの、現在は六本木ヒルズとなっている場所に大きく広がっていた。現在は裏手側にマンションや商業施設が立ち並んでいるが、当時はテレビ朝日の敷地より南側は崖になっており、旧・麻布保健所(現在の六本木さくら坂付近)のあたりからはテレビ朝日全体が眺望できていた。
テレビ東京は日比谷線・神谷町駅の近くにあり、ずばり「神谷町」と呼ばれていた。10階建てほどの社屋は普通のオフィスビル風で、キー局の本社に見えないと言われていたもの。現在は六本木に新築された近代的なビルに移転しているが、ビル丸ごとでなく一部フロアのみを使用しているため、「ビルの前にロケバスを停められない」といった不満が渦巻いているという。