旧ジャニーズ事務所(現STARTO ENTERTAINMENT)のグループで、瞬間最高風速が断トツだったのは光GENJIだと言われている。
1987年にジャニーズJr.(現・ジュニア)のユニットだった「光」と「GENJI」が合体してCDデビュー。社会現象化した人気は、家出同然で代々木公園をフラついていた諸星和己を、ジャニー喜多川氏(2019年死去)がスカウトしたことから始まった。以降、7人組グループでも諸星の人気が頭一つ抜けていた。
旧ジャニの総売り上げで言えば、今なおファンクラブの会員数が300万人を超えている嵐がぶっちぎり。嵐は、99年のデビューから2020年にグループ活動を休止するまで全力疾走。5大ドームツアーと旧国立競技場ライブを実現したのは、SMAPと嵐だけ。25周年アニバーサリーにあたる今年もFCは稼働しているため、不労収益がある。
しかし、光GENJIは昭和と平成黎明期で音楽界の「初」を次々樹立していった。有名なのは、最高視聴率41.9%を叩きだした昭和のオバケ歌番組「ザ・ベストテン」(TBS系)。その週のベスト10に入ったアーティストはミラーゲートから登場するが、番組終了につき、その“大道具”を引き取ったのは諸星だった。光GENJIが番組に貢献したため、謹呈されたのだ。
「諸星さんは、そのミラーを自宅マンションの玄関に置いて、自宅に招いた女性アイドルと“ベストテンごっこ”をしていたとか。彼は当時は、あらゆるトップ級の女性アイドルを“嗜んでいた”ことが有名ですからね」(実話誌のライター)
踊る際に履いていたローラースケートが爆発的に売れて、日本中で品薄になった経済効果も生んだ。もっとも驚かされるのは、厚生労働省(当時は労働省)が定める労働基準法を改訂したことだ。
光GENJIがCDデビューした87年までは、義務教育中のアイドルは午後8時以降の撮影や番組出演が禁じられていた。例外も認められず、現役中学生は現場から帰らされていた。
しかし、「ザ・ベストテン」は午後9時からの生放送。光GENJIでは、赤坂晃と佐藤敦啓(現アツヒロ)が規定に引っかかった。そのため、グループはフルメンバーの7人ではなく、5人で出演せざるを得なかった。
「1988年に労働省が、『その人の提供する歌唱、演技などが基本的に他人によって代替できず、芸術性、人気等当人の個性が重要な要素となっていれば、午後8時以降でも働くことは認める』と異例の声明を発表したんです。日本のトップアイドルが改正したのは、これが初めて。のちに、“光GENJI通達”と呼ばれました」(前出・ライター)
憲法改正に成就した旧ジャニ初のグループ。これはさすがに、SMAPも嵐も達成できなかった。
(北村ともこ)