ところが、これからという96年5月、その森が突如SMAPからの脱退を表明する。幼い頃からの夢であったオートレーサーになるために、芸能界から引退することになったのだ。年齢の関係上、オートレーサーの試験に受験することができるのはこの年がラストということでの苦渋の決断だった。
このおよそ1カ月前、グループ初のゴールデン冠番組「SMAP×SMAP」(フジテレビ系)がスタートしたばかり。そんなやさきの森の脱退は、メンバーに暗い影を落とした。
2トップの一角がいなくなることは、当然SMAPにとっては大きな痛手だ。それでも中居は森の決断を支持した。発表記者会見の場に、口下手な森をフォローするために同席。大好きな読売ジャイアンツの帽子とユニフォームを着用していた。中居は幼い頃、ジャイアンツの選手になりたかったが、ケガのために断念。おそらく、“俺はプロ野球選手になるのをあきらめたが、森には夢を貫いてほしい”と伝えたかったに違いない。去りゆく仲間に想いを託した粋な扮装だった。
「SMAP×SMAP」はすぐに高視聴率を獲得する人気番組に。仲間との別れを経験し、5人組となった彼らはいよいよスターへの階段を上っていく。
SMAPの歴史を語るうえで、決して避けて通れないのが、育ての親であるマネージャーのI女史だ。彼女がジャニーズ事務所の関連事務所の取締役を辞任・退社したことが、解散の引き金とされていることからも、それはよくわかる。
ジャニーズ事務所はジャニー喜多川社長、姉のメリー喜多川副社長、娘の藤島ジュリー景子副社長を中心にしたファミリー経営に等しかった。だが、およそ四半世紀前にI女史が映画関係の会社から転職。デビュー間もないSMAPの担当マネージャーになった。以降、彼女は30代から50代までのすべてをSMAPに注ぎ、文字どおり身命を賭した。
頼もしい味方を得たSMAPだったが、運命とは皮肉なもの。デビュー曲はそれまでのジャニーズアイドルが打ち立てた「初登場1位」という記録に続くことができなかった。時を同じくして、日本経済のバブルが弾け、音楽番組が相次いで終了。本格的なアイドル氷河期を迎えていた。
そんな暗闇に光明を見いだそうとI女史とSMAPがとった策が、「バラエティ界への進出」だった。神ソングである「FIVE RESPECT」の歌詞〈♪ピンチはほら チャンスだと〉とばかり、当時の5人は「なんでもやる!」を御旗に掲げた。