関ジャニ∞といえば、関西弁で芸人顔負けのイメージが強い。ところが、デビュー前から8人(当時)で団結して取りかかっていたのは楽曲制作だ。まだ、地元・関西を拠点にしていたころはかなりストイックだったと、当時の彼らをよく知る芸能関係者は振り返る。
「彼らがまだ関西ジャニーズJr.だったころから関西テレビと縁がありました。97年7月に『Kanjani Knight』という初の冠レギュラー番組がスタートしています。収録していたのは、“旧関テレ”と呼ばれる市内の扇町。よく通っていたことから、レコーディングスタジオもあえてこの付近にしています。ここで楽曲制作に励んでいました」
このスタジオで伝説を作ったのは、村上信五だ。すでにデジタル録音が導入されていたため、音声加工が可能だったにもかかわらず、村上が歌うと機材が壊れるというアクシデントを起こしている。おかげで、その日のスタジオ代はタダになったという。
「不祥事を起こした内博貴が抜けて、7人体制となった初のトリプルA面シングル『好きやねん、大阪。/桜援歌(Oh!ENKA)/無限大』(05年9月リリース)を録ったのも、そのスタジオ。『好きやねん、大阪。』は、間奏がメンバーによる完全アドリブのセリフなんですが、二十歳そこそこの彼らが、もがきながらも“これはオモロイ!”と自信を持って作ったそうです」(前出・芸能関係者)
02年には、今年いっぱいでジャニーズ事務所を退所する渋谷すばると横山裕&安田章大が「三兄弟」というトリオを結成している。彼らは、実話をベースにした「プリン」「アメちゃん」「みかん」「オニギシ」ほか、多くのオリジナルソングを作詞・作曲。その仮レコーディングをしたのも、このスタジオ。深夜まで制作に取り掛かっていたようだ。
同スタジオは現在も同じ場所で運営されており、関ジャニを担当していたエンジニアも健在だ。
関ジャニは旧関テレ時代、先の「Kanjani Knight」「J3 KANSAI」「ほんじゃに!」を経由して、現在は「関ジャニ∞のジャニ勉」をレギュラーに抱える。売れる前から、売れた後も変わらないイイ関係。カンテレは関ジャニにとって“故郷”なのだ。
(北村ともこ)