ジャニーズのアラフィフタレントのなかには、意外な同期がいる。一例を挙げると、元光GENJIの佐藤アツヒロと元SMAPの中居正広、TOKIOの城島茂、V6の長野博は同期だ。86年に入所している。翌87年には、残りのSMAPである、木村拓哉、稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾、森且行の6人が入所。翌88年にはTOKIO・国分太一、V6・坂本昌行と井ノ原快彦が入ってきた。
昭和世代の彼らは、誰が光GENJI、SMAP、TOKIOに振り分けられてもおかしくなかった。現に、佐藤、中居、長野は光GENJIのデビューに向けて開かれていたローラースケート教室に通っていた。長野はジャニー喜多川社長から直接、「YOUを(光GENJIに)入れればよかった」と後悔されている。
SMAPの前身グループであるスケートボーイズには国分、坂本もおり、実際にサポートメンバーとして活動している。その坂本は、TOKIOのサポートボーカルを務めたこともある。
80年代後半、その坂本はジャニーズユニットのキーマンだったという。当時を知るアイドル誌ライターが振り返る。
「TOKIOは、CDデビュー記者会見が開かれるおよそ2カ月前、大阪・松竹座で1日10公演という鬼スケジュールをこなしています(94年5月15日)。このとき、抜群の立ち回りをしていたのが坂本でした。その身のこなしが認められて、後日、ジャニーさんから『TOKIO、どう?』と誘われました。坂本は『楽器できないから、ちょっと考えさせて』といったん保留していました」
22歳だった坂本が保留したことで、事態は大きく動きだす。しばらく経ってからジャニーさんに、「やる!」と電話で伝えると、「明日もう発表(記者会見)だよ」と断られ、坂本はビッグチャンスを逃したのだ。
「坂本の加入について、ジャニーさんに進言したのは、城島です。坂本との最初の電話を切ったあと、ジャニーさんは城島に連絡を入れ、『坂本、TOKIOにどう?』と意見を仰いでいます。そして、『坂本、歌うまいから聴いてもらっていい?』と、電話越しで坂本が歌った『俺んち来るべ』という曲のデモテープを聴かせたのです。坂本の歌唱を聴いた城島は、『たしかにうまいけど、明日だよ、記者会見。間に合うの?間に合わないよね」と、冷静に意見したそうです。ジャニーさんは『だよね』と素直に応じ、翌日、5人でマスコミの前に立ちました」(前出・アイドル誌ライター)
シレッと後輩つぶしをしていた城島。TOKIOデビューの翌95年、坂本はV6としてデビューできたが、このとき胸をなでおろしたのは、ほかならぬ城島だったに違いない。
(北村ともこ)