吉本興業ほどの規模の大きさではないにせよ、芸能界でのデビュー前から浅井企画に具体的な給料額を要求していた特異なケースがある。
1991年に活動を開始し、平和な笑いでお茶の間を盛り上げてきたキャイ~ンの天野ひろゆきは、広告欄に貼られた芸人募集の文字に目を奪われ、浅井企画に電話をかけると、すぐさま所属が決定し、さらにはウド鈴木という“超特急”を手にしたことでほぼ下積み期間なくブレイクに漕ぎ着けたと語っている。
また、“電話一本”でプロダクションへの所属を叶えた天野は、お笑いタレントとしてのキャリアをスタートする前から、「大卒平均くらいの給料を貰えないなら芸人はできません」と主張。いかなる実績も構築していない状態での“ギャラ交渉”だけに、本人はダメ元だったと明かしているが、結果的にその要求は受け入れられ、デビュー当初からアルバイトをせずとも生活が成り立っていたという。
「現在の吉本興業を例に挙げるならば、芸人を目指す人間はまず、40万円ほどのスクール費を支払って吉本の芸人養成所へ入学し、1年間のプログラムを終えて初めて“所属”となりますが、貰える給料はスズメの涙ほど。雑用や先輩の舞台の手伝いなどで数百円から数千円の金額を受け取り、メインの収入源はアルバイトというのが普通ですから、天野のこのエピソードは武勇伝として語り草になるでしょう。当然ながら、黙ってても年間に1000人~2000人レベルの志願者が集まる吉本と、電話1本で所属を決めていた当時の浅井企画とでは大きな違いがあるものの、天野の肝が据わっていたのは事実かもしれませんね」(テレビ誌ライター)
ただし、“笑いのドーピング”ともいうべきウド鈴木のアクション芸で、デビュー初期からロケットスタートを切ったキャイ~ンは、その後のスランプに悩まされたこともインタビューで振り返っており、その並外れた強心臓とウド鈴木の勢いだけで制圧できるほど、お笑いの世界は甘くはなかったようだ。
(木村慎吾)