タレント・若槻千夏からすると、後輩の木下優樹菜は休業中の“繋ぎプレーヤー”だったのかもしれない。9月23日付で配信されたお笑い芸人・東野幸治のYouTubeチャンネルにゲスト出演し、木下のブレイクに“感謝”する場面があった。
屋外の広場でコーヒーを飲みながら対談した若槻と東野。17歳でデビューした若槻の芸能界におけるキャリアが話題となり、全盛期には8本ものレギュラー番組を抱える一方、多忙により心身ともに疲弊してしまったという。
その結果、22歳で引退を決意するも、当時の事務所には若槻以外の所属タレントがおらず、「私が休業するイコール、事務所がクローズするっていう話になっちゃう」といい、1年の猶予を設けられた。事務所は「1年のうちに新しいタレント見つけます」と意気込み、ようやく見込みのある“第2号”を発掘。東野から「誰やったの?」と聞かれると、若槻はためらいつつ「木下優樹菜…」と答え、「でも、感謝感謝で。木下優樹菜が第2号で入ってくれて」と振り返っている。
頼もしい木下の大ブレイクにより、若槻は2007年に芸能活動を休止。翌年からは憧れだったアメリカのロサンゼルスで洋服の買い付けを始めることに。当初、若槻は引退を望んでいたものの、事務所社長から「辞めると(芸能界に)戻りにくくなる。戻りやすい環境は引退じゃなく休業だよ」とアドバイスされ、現在に至るという。
「社長は将来的に若槻がタレント復帰を考える日が来ると踏んでいたようですが、その予想通り、出産後の18年~19年頃より本格的にバラエティ番組で稼働し始めました。すると、若槻の休業とバトンタッチする形で07年頃よりブレイクした木下は、19年秋に“タピオカ騒動”を起こし、20年夏に事務所を退所。地上波テレビ放送からは距離を置いている状況が続いており、ネットには『育休終えて復帰したいちょうどいいタイミングで木下優樹菜が不祥事起こして、温めていた椅子空けてくれて、本当に感謝感謝だ(笑)』『若槻さんが復帰するタイミングを計算して“タピオカの乱”が起こったんですね』『結局は後継者より長生きしてるな』などの反応が上がっていました」(テレビ誌ライター)
木下の退所は悔やまれるものの、当時の事務所サイドに立ってみれば、功労者である若槻の本格復帰は即戦力として頼もしいものだったに違いない。
(木村慎吾)