大野智といえば、来年の嵐の活動休止を結論づけたキーマン。松本潤と並んで、現在は単独でラジオ、テレビ番組のレギュラーを抱えていない。しかし、人気はトップ。コンサートのファンサービスが丁寧であることが、グッズ売り上げトップを堅持している理由とされている。
嵐では、最年長(38歳)にして最古参。近い同期に、V6・岡田准一がいる。そして、この岡田こそが大野のジャニーズ人生を大きく変えたと、アイドル誌のライターは言う。
「20年以上前、ジャニー喜多川社長と大勢のジャニーズJr.がいた中で、偶然、大野と岡田が隣に座っていました。たくさんの中からジャニーさんが最初に『YOU、バレーボールできる?』と聞いたのは、大野。そもそも経験がないのに加えて、『できます』と答えると、バレーボールにちなんだ何かをやらされると思った大野は、『できない』と返したそうです。隣にいた岡田が同じことを聞かれると、『できます』と即答。その後、岡田はV6に選ばれました」
V6は95年、フジテレビ系「バレーボールワールドカップ」のイメージキャラクターに選ばれて、デビュー曲「MUSIC FOR THE PEOPLE」がイメージソングに起用され、夢のCDデビューを果たした。これによって、4年に一度開催されるフジテレビ系バレーボールのイメージキャラクターに選出されたJr.ユニットは、CDデビューできるという路線ができたのだ。トップバッターのV6に続き、この4年後の99年にチャンスをつかんだのが嵐だ。
「95年の段階でもし、大野がイエスと答えていたら、大野はV6で、岡田は嵐だった可能性があります。でも、大野は、『(断って)よかった。バレーボールの何かをさせられなくてすんだ』と思ったそうです。その理由は『踊りたかったから』で、かねてから高かったダンススキルは、16歳から18歳の3年近くにわたって毎日上演されていた舞台『ジャニーズ・ファンタジー KYO TO KYO』で開花。弱冠17歳で座長になっています」(前出・アイドル誌ライター)
舞台の終幕後は、移り住んでいた京都を引き払って、東京に帰ってきた。徐々に仕事が減り、退所しようか、美術を学ぶために学校へ入学しようか悩んだ。そんな矢先に誕生したのが、嵐だった。
今年は入所四半世紀で、嵐は結成20周年のダブルアニバーサリー。それだけの間、猛烈に働いたため、休養したくなって当然なのかもしれない。
(北村ともこ)