元SMAPのリーダー・中居正広がジャニーズ事務所を退所して、2度目の夏を迎えた。
木村拓哉と同じグループ最年長(今年49歳)だったが、事務所への入所は1年早い86年。中学2年生だった。まだ実家の神奈川・藤沢市から通っていたころ、2つの初体験を済ませている。
芸能人になって初めての仕事は、フジテレビ系の「芸能人水泳大会」。昭和の時代にバラエティ番組が活況を呈していたころ、騎馬戦で競う女性が白熱の末にバストを出してしまうシーンが定番。ポロっと見えるのが目当てで視聴率は高かった。
ジャニーズタレントでは田原俊彦、近藤真彦、野村義男のたのきんトリオ、本木雅弘、薬丸裕英、布川敏和のシブがき隊がエース。中居らジャニーズJr.はひな壇でラッパを吹き、現場をとにかく盛り上げた。ペーペーの新人は、収録場所の神奈川・大磯ロングビーチに現地集合・現地解散。日当は3000円だった。
この年、もうひとつの初を経験したのが「ジャニーズ野球大会」。場所は東京ドームがオープンする前の聖地・後楽園球場。ジャニーズオールスターズが勢ぞろいし、ピッチャーはマッチ。守備はシブがき、デビューまもない少年隊の東山紀之、錦織一清、植草克秀もいた。そんなトップアイドルの中にポンと放り込まれたのが中居。セカンドの大役を任された。
「中居は少年野球経験者。小学生の時は練習に明け暮れ、将来は読売ジャイアンツの選手になると夢見ていました。テレビも野球中継ばかり観ていたので、芸能界に詳しくなかったけど、ジャニーズは知っている。マッチやシブがき、少年隊と距離が近づいた時、『俺、何してんだろう』とドキドキしたそうです」(週刊誌記者)
中居はジャニーズに送った履歴書に、草野球経験者と書いていた。それが故・ジャニー喜多川氏の目に留まったことは想像に難くない。
ジャニー氏の父はプロ野球・ゴールドスター(現在の千葉ロッテマリーンズ)のマネージャーをしており、ジャニー氏自身も日本のアメリカ大使館で勤務していた1960年代に近隣に住む少年たちに好きな野球を教えていたほど、親子2代で野球好き。その上でバンド活動もしており、この趣味の2つを混合させたのが少年野球の教え子だった4人で結成した「ジャニーズ」。のちに事務所のアイドル第1号となった。
「ジャニーさんは、エンタメと同じ熱量を野球に注いでいました。ジャニーズ野球大会を定期的に開催したのはその表れ。無名の中居を抜てきしたのも納得できます。ちなみに、中居の“プロ”野球デビュー戦のギャラは5000円だったそう」(前出・週刊誌記者)
80年代アイドルの誰もが出演した水泳大会はバラエティの衰退とともに終わりを告げ、ジャニーズ野球大会も17年を最後に開催されていない。ジャニー氏亡き今、野球大会の復活を希望する声は多い。滝沢秀明副社長は伝承できるだろうか。
(北村ともこ)