中居正広は元野球少年だ。小学生の頃は練習三昧だったため、芸能界はもとよりジャニーズアイドルも詳しく知らなかった。ところが、ケガをしてプロ野球選手になる夢を断念すると、ヤンキーとつるみテレビを見るようになり、少年隊に魅せられた。その勢いを持ったまま、中学生だった86年にジャニーズ事務所に入所した。
小柄で大きな瞳が印象的だった中居を採用したのは、当時の社長だったジャニー喜多川氏。翌87年、のちにグループを組むこととなる木村拓哉、稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾、森且行(現・オートレーサー)が入所して、ジャニーズJr.12人によって「スケートボーイズ」が結成。翌88年、入れ替わり制ながらも選抜された数名によってSMAPが結成された。
同年、ジャニー氏はSMAPをマイケル・ジャクソンの東京ドーム公演に連れて行った。最前列というVIP席だった。香取は11歳で小学生。のちにV6となる井ノ原快彦もいた。メンバーと別のアリーナ席で観ていたのは、16歳だった木村拓哉。木村と同級生の中居もいた。その日、マイケルを初めて目の前で観たことによって、中居の人生は一転した。
のちに、共演する“事件”が起こった。06年に「SMAP×SMAP」(フジテレビ系)の歌収録が東京・TMCのスタジオで行われていた時、来日していたマイケルがメンバーに内緒でやってきていた。番組プロデューサーが水面下で何カ月にもわたって口説いており、ついに首を縦に振らせたのだ。
何も知らないメンバーは、いつも通り歌リハ。スタッフのミスで突然音楽が途絶え、メンバーが膝から崩れ落ちた時、スタジオの副調整室から多くの取り巻きとともにマイケルが階段を下りてきた。“神”マイケルの登場に、中居は何度も「マイケル・ジャクソン?」と本人に確認して、「司会ができない」とうろたえた。
2年後、SMAPの全国ドームツアーにマイケルの振付師として有名だったファティマ・ロビンソン氏が帯同。09年、マイケルは50歳の若さでこの世を去った。10年、SMAPは19枚目のオリジナルアルバム「We are SMAP!」をリリース。DISC 2に収録されている中居のソロ曲「Memory~June~」は、作詞・作曲・編曲が「N.マッピー」名義の中居。マイケルに捧げた追悼ソングだった。音楽誌の編集者は言う。
「愛する人を失った究極のラブソング風の歌詞は、マイケルを思って書いたもの。Juneは、マイケルの死が09年“6月”25日だったから。MemoryとJuneで、マイケル・ジャクソンの“MJ”となります。変わらないあなたへの思いを抱きつつ、さようならを受け入れ、もう泣かないでとなぐさめる。マイケルへのラブレター、決意の表れといえます」
中居をSMAPにしてくれた“芸能界の父”はジャニー氏。そのジャニー氏に手を引かれて観たマイケルから、エンターテインメントの在り方を学んだ。この2人がいなければ、SMAPの躍動はなかったのかもしれない。死してもなお輝く2人の恩師。中居のルーツはここにある。
(北村ともこ)