ジャニーズ事務所のジャニー喜多川元社長が亡くなったことによって、注目されているのは“子ども”たちの進退問題だ。退所へのカウントダウンが依然としてささやかれているうちの1人にTOKIO・長瀬智也がいる。昨年5月、山口達也が不祥事を起こして脱退して以降、グループの音楽活動が休止されているのが要因とされている。
TOKIOは、今年が結成25周年のメモリアル。山口事件以降は、バラエティタレントという片翼飛行を強いられているため、夏の大型音楽番組への出演がゼロ。ミュージシャン志向が人一倍強い長瀬にとっては、このうえない苦境だ。
そんな長瀬はかつて、ジャニーズ歴代トップのある金字塔を打ち立てている。
「長瀬さんは事務所史上最高となる150万通の履歴書から選ばれた、たった1人の合格者なんです。諸説さまざまありますが、ジャニーズには1カ月でおよそ3万通の履歴書が送られてくるといいます。単純計算で年間36万通。光GENJIが爆発的な人気を誇ったあとの88年から89年にかけては、50万通に達しています。このときの合格者は、のちにメンバーとなる松岡昌宏でした」(アイドル誌ライター)
松岡が難関を突破して入所したのは89年。その翌90年、150万分の1の確率で、まだランドセルを背負っていた長瀬がジャニーズJr.の一員になった。同年、松岡は国分太一と一緒に、先輩の城島茂&山口とユニットを結成することを告げられ、城島と対面。顔を合わせた瞬間、「(ジャニーズ人生が)終わった…」と肩を落としたという。
のちに初期メンバーだった小島啓さんが加わって、TOKIOは5人体制になった。しかし、94年のメジャーデビュー直前、小島さんが芸能界を引退。サプライズ人事でメインボーカリストの座に収まったのは、最年少15歳で、TOKIOサポートメンバーでタンバリン担当だった長瀬だった。
「演奏経験ゼロの長瀬は、ほかの先輩4人とは比べものにならない完成度の低さでした。でも、群を抜いたイケメンで未成年。松岡は、城島との対面時と正反対で、長瀬加入を目にした瞬間、『売れる!』と確信したといいます」(前出・アイドル誌ライター)
小島さんから長瀬への土壇場チェンジ。これもジャニー氏の目論見であったなら、その先見の明はドンピシャだった。
(北村ともこ)